2016年1月30日土曜日

数をかぞえて - by まさゆき

先日、北鎌倉円覚寺の日曜座禅会に参加してきました。



住職様より禅語の説明があり、お説教の後、凜とした講堂で座禅へと入っていきました。

蓮華座を組んで、丹田あたりで呼吸を数えることだけに集中するようにと言われ、試みますが中々上手くいきません。頭の中ではあれこれと考え事ばかりです。

呼吸とカウントならいつもヨガの練習でやってるじゃないかと思ったのですが、はたしていつもの練習で集中してできているのかなと考えてみました。

呼吸を数えているのはポーズが止まった時の5呼吸の時ぐらいしか思いつかず、体の細かいアライメントばかり気にしている記憶しか思い浮かびません。

ここまで考えた時、座禅中に不謹慎だと思い、警策を受けました。

パシッ‼︎

全く修行が足りません。





頭の中で太陽礼拝をしてみました。

呼吸を吸う、吐くに合わせて、イチ、ニイ、サンと数えることだけに集中する。体を動かさないため、イメージだけのヴィンヤサが気持ち良く進んでいきます。

ヨガをはじめたばかりの頃、一生懸命インストラクションをききながらポーズをとっていた頃の心地よい感覚を思い出しました。





自分のためにヨガを続けてくことに疑問を感じはじめてから、ゆみこ先生のお手伝いをさせてもらっています。

ヨガを伝えることから学ぶ気づきや喜びは、かけがえのない経験です。けれど、伝えることへの不安を感じることもあります。

今の自分の実力でいいのだろうか?

今日のアジャストはあっていただろうか?

生徒さんからの質問への受け答えが押しつけがましかったのじゃないか?

自問自答を繰り返し、自己嫌悪に陥ってしまうことも、しばしばあります。




ヨガをはじめたばかりの頃の純粋に楽しむ気持ちを思い出しながら、呼吸にあわせ、ゆっくりと数をかぞえて、ヨガを伝えることにゆとりを持っていけるように、自分に言い聞かせてみようかなと。

ここまで考えた時、座禅中に不謹慎だと思い、警策を受けました。

パシッ!

全く修行が足りません。




今月誕生日を迎え、5歳になった次男に自転車をプレゼントしました。

まだまだペダルを漕ぐのに精一杯です。補助輪はついていても、さも自分ひとりで乗っているかのように、楽しそうに自転車に乗る息子を眺めながら、ひとつひとつ丁寧に後押ししていきたいなと思います。

ナツキさ〜ん、オヤジパワーで頑張りましょう〜。


by まさゆき

2016年1月23日土曜日

学びのとき・滋養のとき


例えばちょっとしたアクシデントで怪我をしてしまったり、ふとしたキッカケで体調や心のバランスを崩してしまったり、思いもよらぬ病気になってしまったりと、私達の日々の生活には意図せぬ出来事が満ち溢れています。

そんな不調の時であっても、仕事や家事や子育てなど、放棄することのできない任務を抱える私達にとっては、「無理をしない範囲で加減をしながら、妥協点を見出しながら、周囲の手助けを受けながら、するべきことの”本質”の部分をしっかり押さえておこう」とするのが常です。

大事な試験の直前に風邪をひいてしまったならば、前夜は無理して詰め込まずに休息をとり、ベストコンディションでできることを行うでしょうし、ヤンチャざかりの子育て真っ最中にぎっくり腰になったら、ご主人や友人のサポートを得ながら、負担のかからない方法で、家事や育児をやりくりするでしょう・・・ それとも、風邪だからと試験を放棄しますか? またはギックリ腰だからと家事や子育てを放棄しますか?

 恐らく答えはNOだと思いますが、ではヨガの練習についても、同じことが言えるでしょうか?




 アシュタンガヨガの練習を毎日続けていると、自身の体調や心の状態の変化にとても敏感になり、ちょっとした不調の予兆ですら違和感としてハッキリ感じ取られるようになってきます。そして、恐らく私達のほとんどが、この違和感をネガティブなものとして捉え、排斥しよう、否定しよう、または乗り越えようと無意識に努力を重ねる傾向にあるような気がします。

そんな私達アシュタンガ練習生が、ある日突然、ヨガの練習中ではなく普段の生活の中で、ケガをしたと仮定しましょう。転んで手をついた拍子に指の骨にヒビが入り、「手を床につけて重心を乗せる」という動作ができない状態を想像してみてください。

アシュタンガヨガはビンヤサという独特な動きによってポーズとポーズの間をつなぎますが、このビンヤサ-ジャンプバックとジャンプスルーという動的動きや、下向きの犬のポーズと上向きの犬のポーズという静的ポーズ-はいずれも両手を床に着き身体を支える姿勢によって構成されています。

つまり「手を床につけて重心を乗せる」ことができないと、「正しいやり方」として教わった方法でビンヤサが行えない、ということになってしまします。



けれど 「正しい」 って、いったい なんでしょう?



怪我をした手以外はピンピンと元気イッパイですから、アシュタンガの練習をやりたい!と思うのは当然ですよね。数日たって落ち着いて来れば、たぶん恐る恐る練習を再開することでしょう。

違和感や痛みはあるけれど、ちょっと無理すれば、ちょっと我慢すれば、ちょっと痛み止めを飲めば、「正しいやり方」っぽいカタチで、なんとなくできる・・・ そんな風に、限りなく「正しいやり方」に寄り添うように再開した練習は、確かに楽しいけれど、どこかに常に負担がかかり、正直ちょっとシンドク感じます。

無理を続けているせいか痛みはなかなか引かなかったり、むしろどんどん悪化していってる気がしたり、自分はなんのためにヨガをやってるんだろう?と悩んだり、ビンヤサは丸々飛ばしてポーズだけやろう!と工夫をしたり、果ては「アシュタンガは万全なコンディションじゃないと無理!」だからと練習自体を止めてしまったり・・・

「ヨガとケガ」をめぐる私達の反応には様々なパターンがありますよね。

それのどれもが、同じくらい等しく「正しい」し、同時に「無知の顕れ」でもあるし、しかし決して「間違って」はいないと思います。だけど、「それはヨガじゃない」とか、「そのやり方は間違っている」とか、そういう視点を持つことで、自身が辛くなってしまうのは、ちょっと残念。

せっかく出会えた「ヨガ」と共に、より良く生きていくには、色んな「思い込み」を一旦リセットすることも大事。病気やケガなど不遇な状況に身を置いている時こそ、回復へ向かっていけるよう、ヨガの力を借りて、もっともっと自由に、やさしく癒されて、解放されてしかるべきなんじゃないかな。

両手を床につくことができないのなら、つかなければいい、それだけのことだと思います。ビンヤサの動きはしなくても、決められた呼吸のカウントは抜かさないでしっかり意識的に行う・・・それだけで十分アシュタンガヨガの本質の部分は心身に響いているはず。


健康で元気なときには気にも留めなかったことが、ケガや病気で不調になると見えてくることがあります。それって、まさに、ありがたい学びのとき・滋養のとき、だからこそ。

怪我や病気をしてしまったから、アシュタンガヨガの練習が悲痛で辛いものになる・・・ のではなく、ケガや病気をしてしまったからこそ、アシュタンガヨガ の練習が、さらに素晴らしいものとなり、その恩恵をしっかりと受け止められる、そんな練習をしてほしいな、と思います。 




逗子ヨガでアシュタンガを長く練習している生徒さんのひとりは、先日事故で骨折をしてしまったのですが、身体に負担をかけない簡易ポーズで、しっかりと呼吸と集中を意識した、とても深いアシュタンガヨガの練習を続けています。知らない人がパッと見たら、「あの人なにやってるんだろう?」と思うようなポーズのカタチではあっても、その不自由そうな身体の中に宿る彼女の心は、とても静かに集中しています。

わたしは、それをアシュタンガヨガの本質だと、思っています。

奇しくも私自身、現在頸椎ヘルニアの症状が強いため、普段と同じ練習はしていません。けれど、毎朝マットの上で「正座~膝立ち~子供のポーズ」を繰り返すだけの太陽礼拝を、カウント通りに行っています。身体は動かせないけれど、呼吸はまるでフルプライマリーをしている時のようです。身体全体の筋力はほとんど使わず、バンダで体内のエネルギーを調整して、ドリスティで意識を一点にとどめる・・・それだけの単純なことですが、ストレスフルな日常を健やかに生きるための、欠かせない日課となっています。ちょっと凹みそうな頸椎ヘルニアの痛みを抱えた日々であっても、こんな風に支えとなる練習ができるなんて、アシュタンガヨガをやっていて良かったな、と思います。





ところで youtube などで目にするアシュタンガヨガの動画は、ポーズや動きの精巧さ・美しさ・力強さを表現したデモンストレーションが多く、そのイメージが蔓延しすぎて、「アシュタンガヨガは肉体的に優れた一部の人達のためにある」と思われ、普通の一般的な私達には「敷居が高い」とか、「難易度が高い」といった偏見が生まれているような気がします。

こちらの動画、Jeff LichtyのAn Introduction to Ashtanga Yoga Practice - Gentle Beginners Routine (アシュタンガヨガのプラクティス入門―ビギナーのためのやさしいルーティーン)は、外側のカタチに囚われない、アシュタンガヨガのアサナ練習の本質の部分を、普通の一般的な方々が敬遠せず納得できるよう、わかりやすくていねいに説明しています。

無理することで見失ってしまう大切なこと。現代社会に生きる私達が、なぜヨガをするのか?の根源的な意義など、ついつい忘れがちなことを沢山思い起こさせてくれました。とても素晴らしい動画ですので、ぜひどうぞご覧ください。

2016年1月17日日曜日

本質を見つめる瞳

アシュタンガヨガのマイソールクラスでの指導を始めて、7年が経ちます。

これまで大勢の方々がマットの上で練習をする姿を見守りながら、私の心に深く刻まれたのは、誰がどんなに素晴らしい動きやポーズをしているかではなく、それぞれが自身の旅路を歩むかのように、ときに落胆し、途方に暮れ、ガムシャラになり、諦めては、また果敢にも壁に立ち向かい、そして崩れ落ち、自信を失い、周囲に嫉妬し、自己嫌悪や焦りと戦っては、疲れ果て、何度も投げ出そうと思いながらも、またマットの上に、不安な子供の気持ちで立つ、その姿でした。

アシュタンガヨガのマイソールクラスでは、誰もが等しく「できない」ポーズや動きにチャレンジしていく側面があります。どのシリーズを練習していても、どれだけ練習を続けていても、最後は必ず「不可能なポーズや動きに取り組む」ことを余儀なくされ、そしてそこでは、とても居心地のわるい状態に留まる「こころの強さ」が必要となってきます。

「できないからやらない」ではなく、「できたかのように」誤魔化すのでもなく、「無理やりやろう」と暴力的になるのでもなく、できないことに「どのように向き合うか」が、このアシュタンガヨガの練習の肝なのではないでしょうか。

得意なことを、自信満々に、デモンストレーションするように行う動きやポーズは、それを行う本人にとっては「心地よい」ものですが、マイソールクラス指導者のほとんどは、そのようなパフォーマンスには興味がありません。むしろ、そこへ費やすエネルギーを、不得手で心が折れるような居心地の悪い場所でこそ有効に使えるよう導くことを、指導者は大切にしているはずです。

できなかったことができた!ということよりも、できないことへチャレンジしつづける姿そのもの、それこそが、マイソールクラスの指導者にとって、最も心動かされる核心の部分であり、アシュタンガヨガを伝える・指導する原動力なのだと思います。

私はアナタが、どんなにカッコよくハンドスタンドをするかには興味がありません
私が知りたいのは、アナタがカポータサナへの恐怖と立ち向かう勇気があるのかどうかです
私はアナタが、どんなにやわらかにカポターサナをするかには興味がありません
私が知りたいのは、アナタがハンドスタンドへの恐怖と立ち向かう勇気があるのかどうかです


なんてことを心の中でつぶやきながら、とある有名な詩を思い出しました。原文は英語なので簡単に日本語訳をつけました。


この詩を読むたびに、いつでも本質を見つめる瞳を忘れないでいたいな、と思います。

byゆみこ 




The Invitation
by Oriah Mountain Dreamer



It doesn’t interest me what you do for a living.
I want to know what you ache for
and if you dare to dream of meeting your heart’s longing.
あなたがどんな仕事をしているのかには興味がない
わたしが知りたいのは、あなたが心から望んでいるものは何か
そして夢を希求する勇気が、あなたにはあるのか、ということ

It doesn’t interest me how old you are.
I want to know if you will risk looking like a fool
for love
for your dream
for the adventure of being alive.
あなたの年齢には興味はない
わたしが知りたいのは、あなたが
愛のために、夢のために、冒険のために
愚か者となる覚悟があるかどうか、ということ

It doesn’t interest me what planets are squaring your moon...
I want to know if you have touched the centre of your own sorrow
if you have been opened by life’s betrayals
or have become shrivelled and closed
from fear of further pain.
あなたの星座や運勢には興味がない
わたしが知りたいのは、あなたが
自分の悲しみの核心に触れたことがあるのか
人生の裏切りによって剥き出しにされたことがあるのか
もしくは更なる苦痛への恐れに怯え
心を閉ざしてしまったことがあるのか、ということ

I want to know if you can sit with pain
mine or your own
without moving to hide it
or fade it
or fix it.
あなたが、自分の苦痛や、わたしの苦痛を
隠したり、誤魔化したり、取り繕ったすることなしに
共にあり対峙できるかどうかを、わたしは知りたい

I want to know if you can be with joy
mine or your own
if you can dance with wildness
and let the ecstasy fill you to the tips of your fingers and toes
without cautioning us
to be careful
to be realistic
to remember the limitations of being human.
あなたが、自分の喜びや、わたしの喜びと共にいられるか
慎重になるよう、現実的になるよう
そんな節度を促す警告することなしに
ワイルドになって踊り
指の先まで歓喜で満たせるかどうかを
わたしは知りたい

It doesn’t interest me if the story you are telling me
is true.
I want to know if you can
disappoint another
to be true to yourself.
If you can bear the accusation of betrayal
and not betray your own soul.
If you can be faithless
and therefore trustworthy.
あなたの話が真実かどうかには興味がない
わたしが知りたいのは、あなたがあなた自身であるために
他の誰かを失望させることができるのか
裏切り者と非難されても、自分の魂を裏切らずにいられるか
信頼のために不誠実になれるかどうか、ということ

I want to know if you can see Beauty
even when it is not pretty
every day.
And if you can source your own life
from its presence.
常に美しいわけではない物事の中に
あなたは美を見いだすことができるかどうか
そしてその存在を
あなたの人生の源泉とすることができるのかを
わたしは知りたい

I want to know if you can live with failure
yours and mine
and still stand at the edge of the lake
and shout to the silver of the full moon,
“Yes.”
あなたが、自分の失敗や、わたしの失敗と共に生きていけるかどうか
それでもなお、湖のほとりに立ち、銀色の満月に向かって
「YES」
と叫べるかどうかを、わたしは知りたい

It doesn’t interest me
to know where you live or how much money you have.
I want to know if you can get up
after the night of grief and despair
weary and bruised to the bone
and do what needs to be done
to feed the children.
あなたがどこに住み、いくら稼ぐのかには、興味がない
わたしが知りたいのは
悲しみと絶望で骨の髄まで傷つき
疲労困憊の夜を過ごした後に
それでも翌朝には起き上がり
家族を養うためにすべきことを行うことができるかどうか、ということ

It doesn’t interest me who you know
or how you came to be here.
I want to know if you will stand
in the centre of the fire
with me
and not shrink back.
あなたが誰を知っているか、どうやってここまで来たかには、興味がない
わたしが知りたいのは、わたしと一緒に火の中に入り
ひるむことなく立ち続けていられるかどうか、ということ

It doesn’t interest me where or what or with whom
you have studied.
I want to know what sustains you
from the inside
when all else falls away.
あなたがどこで、なにを、誰から学んだかには、興味がない
わたしが知りたいのは、全てが崩壊した後に
あなたを内側から支えるものは何なのか、ということ

I want to know if you can be alone
with yourself
and if you truly like the company you keep
in the empty moments.
あなたは自分ひとりだけでいることができるのか
共にいる相手としての自分自身を
あなたは心から楽しめるかどうかを
わたしは知りたい

2016年1月16日土曜日

ゆるやかに、やわらかく、そして自由に流れるように

今日のハタヨガは、いつもと少し趣向を変えて、からだをやわらかく感じながら、リラックスして自由に動く心地よさと楽しさを味わっていきました。

ヨガポーズのカタチに囚われすぎて、”こうあるべき”カタチにならない自分のからだを「固い」と思い込み、力任せに頑張ってからだを動かそうとする意図は「わたし」という存在をガチガチに窮屈な状態にするだけです。

全身が水の流れのように、自然に重力を感じて、自由にアチコチへ、ゆるやかに動き出していく、その感覚を感じるだけでも、とても気持ちのよい解放感に満ちた癒しのときとなります。

もちろんそこには、単なるやわらかさだけでなく、それを支えるパワーが内に備わっていないと、安心して委ねることができず、緩む部分も緩みません。

ただ単にダラけているだけでなく、しっかりと安定した内なるパワーをアクティブにした上で、自由にゆるやかにやわらかくポーズを楽しんでいく、そんな遊び心で、いつもならちょっと”頑張る”アームバランスやハンドスタントなども、無理なく力まずに楽しんでいきました。

じぶんのからだが”できること・できないこと”を頭で判断せず、まずは身体を解放して自然に「うごく」コツをつかむ・・・それは、1回2回で習得するようなスキルではなくて、生まれたときから息を引き取るまで、生きているあいだじゅう、ずっと一緒にいる友のような感じ。それが、「からだ」を持って「いきる」ってことなんじゃないかな、と思います。

私個人的には、野口三千三さんの哲学にとても影響を受けており、自身のヨガ練習や普段の生活でその智慧を体現していくことが密かな愉しみだったするのですが、本日のテーマとなった「力の抜き方と内なるパワーの引き出し方」は、これからも少しずつハタヨガクラスで取り入れていく予定です。

Michael Taylorの動画をご紹介します。本日のハタヨガクラスで行った、力の抜き方やコアのパワーの引き出し方など、相通ずる部分が沢山ありますので、ご参考までにぜひどうぞ。

byゆみこ







2016年1月11日月曜日

新年ワークショップによせて by まさゆき

逗子海岸からの波風を受けとめるような
勇壮な松の木が立ち並ぶ中庭を
眺めながらのマイソールクラス。

朝日の差し込む教室には
実践者の呼吸音と見えないカウント
体から立ち昇る湯気が漂い
いつもとは違う新鮮な雰囲気を感じました。




ワークショップでは
心理学的/解剖学的アプローチを用いた
アサナの実践講義が行なわれ

いつのまにかヨガ的思考の枠組みの中に
捉えられていた自分自身の
狭義な観念が露見され
物事を見る視野の狭さを感じました。


また、ペアワーク形式の実践を通して
自分自身の思い込みの強さが
心と体の強さや柔らかさに対して
判断基準を偏らせていることに
気づかせてもらいました。





今回のワークショップでは
色々な物事に対する判断を積み重ねている
自分自身を見つめ直す行為として
アサナの練習を続けていくことの大切さを
教えて頂いたような気がしました。

また、アサナに取り組んでいる自分の姿を
冷静に見つめ直すことは
アライメントや柔軟性の状態をそのまま受け止め
頭と心と体のバランスを整えていくための
ひとつの方法ではないかとも思いました。


アサナの練習に取り組む最中に
自分自身をアジャストする感覚を
頭の中に思い描くことで
余分な力が抜け
楽な気持ちで
ポーズが取れるようになった気がします。





「思想しつつ  生活しつつ  祈りつつ」

 黒門カルチャーくらぶの額縁に
書かれていた言葉を眺めながら

自分自身の「ヨガ的な」物事の捉え方を見つめ直し
「普遍的な世界」へと視野を広げていくことを

ヨガの練習を通して
日常生活の中でできますように

と祈ってみた新年のはじまりでした。



by まさゆき

2016年1月7日木曜日

新年ワークショップの感想

先日開催した新年ワークショップへ、遠路はるばる東京からご参加くださったAさんから、ステキな感想文が届きました。



まだアシュタンガを始めて間もないAさんの初々しいピュアなビギナーズマインドは、ワークショップの会場で私達に新鮮なエネルギーを投げかけてくれました。そして、この感想文を読んで、まっさらな状態だからこそ見える本質の部分ってあるんだな、と感じました。

一部抜粋ですが、ここでご紹介させてください。

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逗子も黒門カルチャークラブも、そこにいるだけで浄化されるような、すごくいい所で、私にとってはプチリトリートのようでした。

ワークショップでは、体以上に頭もいっぱい使いました。最初のペアワークで、名前や住んでいる所などを言わないで自身の本質を伝える自己紹介が、特に難しかったです。名前も年齢も家族も学歴も職業も全部取っ払って、残ったありのままの自分を、どう表現したらいいのか?と思ったときに、「言葉にしないで、ただ時間や空間を共有するだけで、分かってくるものなのかな」とも感じました。

アーサナの解説では沢山のヒントや気づきがありました。
疑問だったスプタクルマーサナ、日本人と外国人の体型の違いで違うアーサナに見えたこと、大発見でした!
バッダコナーサナの後のジャンプバックは軽い!というお話を聞いて、私の脳にもそうインプットされたのか、不思議と軽く出来るようになった気がします。

また、傍から見ると私たちヨギーは体が柔らかい方なのに、みんな自分が固いと思っているのが面白かったです。野口体操で全身、脳も体もリラックスすることで、「固い」「柔らかい」の概念が変わるんだなぁと勉強になりました。あまり無理して伸ばそうとせずに、その時の体の楽な状態に任せようと思います。

また次回WSがありましたら是非お邪魔させてください。



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ヨガってなんだろう?アシュタンガってなんだろう?それ以前に、「ワタシ」という存在ってなに?この「ワタシ」という存在の「からだ」と「こころ」が「う ごき」を生み出し「アサナ」というプラクティスするというのは、結局どういうことなの?という本質的な部分に、ちょっとでも目をむけるキッカケとなったか もしれませんね。

ゆみこ

2016年1月3日日曜日

2016年 新年初クラス&ワークショップ

新年あけましておめでとうございます。

この世に生きとし生ける私達がみな共に等しく、場所も国籍も歴史も思想も超えて、より良き年を迎えらえれますよう、心よりお祈りいたします。






本日1/3は、黒門カルチャークラブさんにて新年明けての初クラス。マイソールクラスとワークショップの2本立てを開催しました。

今年の”練習初め”となったマイソールクラスでは、海岸そばの心地よい朝日を浴びて、そこにいる皆さんそれぞれが織りなす呼吸と集中と熱気の中、アシュタンガヨガというツールを介して、とても多くのものを私達はシェアし合っているのだな、と感じました。




料理研究家のHさんの差し入れスイーツを頬張って一息入れた後は、新年ワークショップ。当初の予定が1時間延長で4時間の長丁場となりましたが、参加された皆さんの熱心な探求心は衰えることなく、最後までかなりインテンスにクラスは続きました。

「苦手ポーズの解明」という趣旨で開催した本日のワークショップ、そのテーマは「Strength 強さ/スティラ」と「Flexibility やわらかさ/スッカム」の間でどのようにバランスをとっていくか・・・というもの。
それは肉体的なパワーや関節の柔軟性だけでなく、「心の強さ」「心のやわらかさ」を意識して整えていくワークとしての4時間でもありました。

アシュタンガヨガはアサナをとるプラクティスです。アサナを介して、私達は自分のココロとカラダに真っ向から向き合います。そのときに、私達が陥りやすい習慣や、思い込みの壁に囲まれてしまった価値観、そしてジャッジメントといったトラップ(仕掛けられた罠)から抜け出すことの大切さと、その危険性などを、具体的な苦手ポーズを題材に、ゲシュタルト心理学や野口体操といった、アシュタンガヨガの世界を超えたアプローチで体感していただきました。

自分自身に対するセルフイメージとリアリティのギャップ。無意識に行っているジャッジメント(=批判・判断)によって、自分で自分の「やわらかさ」を否定してしまう心理。アシュタンガヨガを練習している人のほとんどが、「自分のカラダは固い」と思い込んでいるのは何故か?そのような心の固さは、実際の肉体の自然な可動域を卑屈にゆがめ、心身をギクシャクとするだけなのだと、このワークショップを通して、少しでも感じ取っていただけたらな、と思います。

そして「居心地の悪い状態にとどまる勇気」という「心の強さ」が、アシュタンガヨガの練習において、最も必要とされる資質かもしれませんね、という捉え方。心の琴線に触れた方は、明日からの練習に少しづつ取り入れていただけますし、今は引き出しの中にしまっておいて、いつか必要な時がきたら、こそっと取り出してぜひぜひ活用してみてください。

明日から仕事始めの方も多いかと思います。年末年始のちょっとした休息期間を経て、またいつもの日常が始まります。本日の学びは、マットの上のアシュタンガヨガの練習にだけ活かすのではなく、私達の普段の日常生活の様々な場面でも、ちょっとしたヒントになれば幸いです。





ご参加いただいた皆様、お疲れ様です、ありがとうございました。